キラー トーア カマタ。 プロレスラー世界遺産 伝説のチャンピオンから未知なる強豪まで── 「キラー・トーア・カマタ」なぜか心に残る“流血大王”

来日全外国人レスラー名鑑 グレート・マーシャルボーグ

ある日当時実況担当のと飲み、古舘がこれ以上飲めない(食えない)という状態で店を出て、に帰るのかと思いきや、うどんが食べたいと言ったが夜なので店が閉まっていて見つけた屋台のラーメン屋で生卵を2個ずつ落とした4杯を平然と平らげたというエピソードが古舘の自叙伝に記されている。 (敬称略) 東京スポーツ. なお、トーアを「東亜」、カマタを「蒲田」から取った名前だと思っているファンも多いようだが、実はこれは誤り。 馬場自身もこの時期糖尿病が悪化し、その影響から 来る坐骨神経痛に悩まされていたと後日語っています。 Wrestlingdata. 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P82(2002年、日本スポーツ出版社)• 本名のマクロナルド・カマカ( McRonald Kamaka)名義で活動後、よりの地区で トーア・カマタ( Tor Kamata)に改名。 得意技 [ ] マードックのフィニッシュ・ホールドであり、「ブレーンバスター! ノリダーの敵役の怪人としてが演じた。 2015年4月14日閲覧。 2011年12月2日閲覧。

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ディック・マードック

カマタは馬場がリングに戻る際にも馬場の腰を攻めるが、怒った馬場はカマタを場外へ引きずり出してエプロンに叩きつけ、鉄柱攻撃で流血に追い込み、流血したカマタに脳天チョップを乱打も、カマタはキックや指突きで応戦してコーナーからダイビングボディープレスを投下する。 プロレスファンからも存在が忘れられていた、当時の人気『』の『』において、カマタをモデルとした「 トーア・カマタ男」が登場。 この表情を正面から見て固まらない 一般人がいるでしょうか? しかし、この写真でも表現されたいるように、強い事は強いが それ以上に何となく胡散臭い、なぜその男がピーク時の馬場から初めて タイトルを奪取出来たのか?というのがここでの論点です。 木村は早くから日本選手権の開催を提唱していた猪木に対し、今年1月7日、これに賛同する意見を述べ、口頭で猪木への挑戦をほのめかしていたが、正式な文書で挑戦状を送ったのは今回が初となる」(抜粋) 紙面中央には大きく木村の挑戦状が掲載されているものの、猪木の反応は「えっ! 木村が私に挑戦するって? どんな相手でもいつでも挑戦されれば受けて立つつもりだが、相手が木村じゃねえ。 全日本ではローデスと組んで・のに挑戦()したほか、には鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。 2月にに初来日。 そういう意味でも堂々、昭和の日本マット界を支えた名選手の一人として記憶されるべきレスラーといえるだろう。

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過去ログ集 「心に残るB級レスラー1」

Wrestling-Titles. 7月、「チェーン・デスマッチの鬼」とを行ったことがある。 トーアの英語表記は「Tor」で、これは「巨大な岩山」の意味。 とんねるずの番組もこの3月で終了し、まさに「昭和は遠くなりにけり」ということか…。 NWAミズーリ・ヘビー級王座:3回• 国際でもトップ外人としての扱いは受けましたが、タイトル奪取までには 至らず、大暴れするけど最後には倒されてしまうという、「超一流と 呼ぶには何かが足りない」イメージの選手でした。 カマタは地獄突き、マードックはエルボー主体のいわゆるラフファイトなのですが、両者ともに技の合間に見せる表情や間の取り方が絶妙で、会場は大いに盛り上がりました」 プロレス記者 自ら主役も張るだけでなく、ブッチャーのパートナーなどでもしっかり仕事をこなす。 com. com. com. 1978年6月1日の秋田でジャイアント馬場は自身が保持するPWFヘビー級王座をかけて、キラー・トーア・カマタの挑戦を受けた。 馬場は2回も挑戦を受けて軽く料理している。

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ラッシャー木村が猪木に挑戦状(東スポWeb)

ただし、、、、プロレス的深ヨミをすれば、ベルトを渡す相手が何故 カマタであったのか?という点については過去幾度も議論されてきました。 Wrestling-Titles. 4月の『レッスルマニア34』でWWE王座に挑戦するも敗れた中邑真輔は、その試合後、王者のAJスタイルズに対して強烈なローブローを放ち、突然のヒールターンをアピールしてみせた。 Wrestlingdata. 強面(こわもて)の外見とは違って、普段は物静かで細工やが趣味だったという。 Cagematch. 喧嘩っ早い性格である一方で、どこか抜けた所があり、ファンから愛された。 com. SLAM! しかし6月12日のでの初防衛戦でに敗れて王座転落。 酒、特にをこよなく愛しており、サインをする時に自身の名前の横に、好物として『beer』と書き加えることもあったという。

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キラー・トーア・カマタPWF王座奪取の深ヨミ

享年70。 そんなカマタが馬場から看板タイトルを奪ったことは、当時のプロレスファンに大きな衝撃を与えた。 1982年は1月3日に後楽園ホール、7月9日ににて、鶴田のにも2回挑戦した。 同年10月9日ににてロビンソンにリターン・マッチを挑むが失敗 、その後も王者に返り咲いた馬場に2度に渡って挑戦したが王座奪回は果たせなかった。 (子牛の焼印押し) から出戻ったに仕掛けたこともある。 まず、なぜ馬場がタイトルを手放したか?ですが、自身の体調不良が大きな 要因と思われます。 ムース・モロウスキー、私も大ファンでした。

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キラー・トーア・カマタ

とはいえ、格下と見なしていた猪木と引き分けた相手に馬場が負けるわけにもいかず、苦肉の策でカマタを間に挟むことになったのでしょう」 スポーツ紙記者 では、なぜカマタだったのか? 「この当時、全日の悪役といえばアブドーラ・ザ・ブッチャーが絶対的な存在でしたが、前年 '77年 暮れの『世界オープンタッグ選手権』でザ・ファンクスと抗争が勃発しており、そちらに専念させたい意向があった。 アメリカではそこそこ実績があるのに。 この年に至ってはカマタ戦が初防衛戦でした。 2013年12月18日閲覧。 のインタビューにおいて、自身のキャリアにおけるラフェスト・マッチ(もっとも荒っぽかった試合)としてブッチャー戦を挙げている。 The History of WWE. 優勝経験は無いものの、や 等、タッグパートナーに恵まれていたこともあり、優勝争いには必ず絡んできた。 com. キラー・トーア・カマタ 1937年3月9日〜2007年7月23日 70歳没。

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